2015年 06月 09日
研修旅行3日目 |
研修旅行もいよいよ3日目、最終日となりました。
最終日は主に青木淳建築計画事務所が設計した青森県立美術館を見ました。
青木さんは著書「原っぱと遊園地1・2」で、誰かによって作り込まれた至れり尽くせりの遊園地よりも、誰の手も加えられていない原っぱの方が、自由に遊びを考えられる余地があって楽しいという考え方を示されています。
まさに青森県立美術館は青木さんの問題提起に基づいて作られているように感じました。
建築としてのわかりやすさはぎりぎりまで省かれており、訪れる人は見なれているようで見たことのない、少し不思議な感覚になるのではではないでしょうか。
この建物はどこから入るのか。
大きな軒下空間があって入口らしさはなんとなくあるのですが、軒下以外にもいくつも入口があっていろんなところから入って行けるようになっています。どこからも入って行けるといえばそうなのですが、わかりやすいメイン/サブのヒエラルキーは意図的にうやむやにされているようです。
地上レベルに一切展示室がない。
来訪者がアプローチに沿って眺めながら近づく地上のメインボリュームは、事務室と収蔵庫がほとんどでエントランス以外は入ることができません。印象的なアーチ窓も結局来訪者は経験することが出来ません。ずっと見えていたところに行けないのです。通常アプローチで期待感を持たせた特徴的な窓は、館内を経験した後に内部から外のアプローチ空間を見返すなどして経験の統合を図ることで完結することが多いと思うのですが、この建築はそうなってはいません。形態が内部を明示していないのです。
いきなりエレベーターで最下層に下される。
来訪者は白い地上のエントランスから突然土を模した暗い床や壁面の地下空間に一気に落とされます。ここはどこなのか?突然の変化に戸惑うばかりです。ある種のワープのようなもので、建築空間にとって通常前提となる空間の連続が裏切られています。ちなみにこの土の質感を持つ地下空間は隣接する三内丸山遺跡の調査用のトレンチ(塹壕)を模したもので、美術館という汎用的な機能に土地の固有性を接続する試みと考えられます。
自分の居場所も行き先も分からない。
地中に二層にわたる立体迷路が張り巡らされています。もちろん美術館ですから、照明、空調、トイレなどの必要な設備、階段を含めた避難経路や排煙などの法規的な基準も満たされています。ですが、とにかく迷路的でどこがどうなっているのかわからないのです。次の展示品を探して彷徨う感じです。中には何のためか定かでない行き止まりの細い路地状の空間もありました。構成の簡潔さを排除することによって生まれる驚きや発見はゲームのダンジョンで宝箱を見つけるのに近いかもしれません。
以上のようにこの建物は、建物らしくあることを注意深くぎりぎりまで遠ざけているように感じます。「建物が建物らしくあろうとすること」で来訪者を先回りして「至れり尽くせり」となってしまうことを避けているかのようです。
入口らしい入口をつくるとそこはあくまでも入口となり、入口以外の行為や解釈を許さない「不自由な」空間となってしまうから?「至れり尽くせり」はある限定された行為のために特化しすぎた空間であり、それ以外の行為を拒否する空間であるから?
であるからこそ青木さんは、来訪者に自由を感じてもらえるように「原っぱ」を設計するという、実は矛盾する難しい方法でこの美術館を設計しているように思いました。
そんなことを考えているうちに新幹線はあっという間に大宮の駅に着きました。今年もなかなか面白い旅行になりました。
文:大久保元彰
最終日は主に青木淳建築計画事務所が設計した青森県立美術館を見ました。
青木さんは著書「原っぱと遊園地1・2」で、誰かによって作り込まれた至れり尽くせりの遊園地よりも、誰の手も加えられていない原っぱの方が、自由に遊びを考えられる余地があって楽しいという考え方を示されています。
まさに青森県立美術館は青木さんの問題提起に基づいて作られているように感じました。
建築としてのわかりやすさはぎりぎりまで省かれており、訪れる人は見なれているようで見たことのない、少し不思議な感覚になるのではではないでしょうか。
この建物はどこから入るのか。
大きな軒下空間があって入口らしさはなんとなくあるのですが、軒下以外にもいくつも入口があっていろんなところから入って行けるようになっています。どこからも入って行けるといえばそうなのですが、わかりやすいメイン/サブのヒエラルキーは意図的にうやむやにされているようです。
地上レベルに一切展示室がない。
来訪者がアプローチに沿って眺めながら近づく地上のメインボリュームは、事務室と収蔵庫がほとんどでエントランス以外は入ることができません。印象的なアーチ窓も結局来訪者は経験することが出来ません。ずっと見えていたところに行けないのです。通常アプローチで期待感を持たせた特徴的な窓は、館内を経験した後に内部から外のアプローチ空間を見返すなどして経験の統合を図ることで完結することが多いと思うのですが、この建築はそうなってはいません。形態が内部を明示していないのです。
いきなりエレベーターで最下層に下される。
来訪者は白い地上のエントランスから突然土を模した暗い床や壁面の地下空間に一気に落とされます。ここはどこなのか?突然の変化に戸惑うばかりです。ある種のワープのようなもので、建築空間にとって通常前提となる空間の連続が裏切られています。ちなみにこの土の質感を持つ地下空間は隣接する三内丸山遺跡の調査用のトレンチ(塹壕)を模したもので、美術館という汎用的な機能に土地の固有性を接続する試みと考えられます。
自分の居場所も行き先も分からない。
地中に二層にわたる立体迷路が張り巡らされています。もちろん美術館ですから、照明、空調、トイレなどの必要な設備、階段を含めた避難経路や排煙などの法規的な基準も満たされています。ですが、とにかく迷路的でどこがどうなっているのかわからないのです。次の展示品を探して彷徨う感じです。中には何のためか定かでない行き止まりの細い路地状の空間もありました。構成の簡潔さを排除することによって生まれる驚きや発見はゲームのダンジョンで宝箱を見つけるのに近いかもしれません。
以上のようにこの建物は、建物らしくあることを注意深くぎりぎりまで遠ざけているように感じます。「建物が建物らしくあろうとすること」で来訪者を先回りして「至れり尽くせり」となってしまうことを避けているかのようです。
入口らしい入口をつくるとそこはあくまでも入口となり、入口以外の行為や解釈を許さない「不自由な」空間となってしまうから?「至れり尽くせり」はある限定された行為のために特化しすぎた空間であり、それ以外の行為を拒否する空間であるから?
であるからこそ青木さんは、来訪者に自由を感じてもらえるように「原っぱ」を設計するという、実は矛盾する難しい方法でこの美術館を設計しているように思いました。
そんなことを考えているうちに新幹線はあっという間に大宮の駅に着きました。今年もなかなか面白い旅行になりました。
文:大久保元彰
by sekkeiarai
| 2015-06-09 21:41
| 行事